2018年7月29日日曜日

2018.0729.0219


「原発が壊れることなどありえない。」
殆どの、99.99%以上の「國民」がウソを信じ込まされていた。
2011年3月11日。
フクシマにおいて3基の原発を爆発させた。
1号機と3号機がキノコ雲を上げる映像はテレビでも流され、
見た記憶がある者も多いはず。
今でもネットで簡単に見ることができる。
8年目。
フクシマを引き起こしたのに、
途轍もない放射能汚染が消えていない、「永久に」放射能汚染を消すことができない場所に子どもを「閉じ籠めて」、
逃げた子どもたちまで引きずり戻して、
再稼働ドミノを続けている。
今この瞬間も、6基も老朽化している原発を偏西風の風上で動かし続け、放射能を増やし続けている。
311前よりも何千倍も放射能に汚れている食べものを、健康に影響はないとウソをついて食べさせ続け、
子どもたちに、赤ちゃんにまで食べさせ、飲ませ、吸わせて、累積被曝を高め続けている。
それでも、
殆どの、99.99%以上の「國民」は、「生活」がある、と言って、
只管、目先のカネを追い求めて現実に向き合おうとすら、しない。
40度を超える、死者まで出ている暑さを自分自身も体感しているのに、
オリンピックのウソに、殆どの、99.99%以上の「國民」は、「生活」がある、と言って、
「乗っかっている」。
***
「「エリート」のみならず、社会全体がオウム的になっているとすら言えます。」
***
日本人よりも原発やピカ(原爆)のウソについて詳しい、評論家や専門家の殆んどがヒラリー・クリントンが大統領になると予想していた時に、
トランプが大統領になると予言していた米国人の詩人。
残り2年を切った。
必然的なフクシマ以上。
もともと、地震大国、火山列島。
余震(予震)も噴火も続いている。
必然的なフクシマ以上は、次の瞬間でも、まったく不思議ではない。
必然的なフクシマ以上の危険性を一瞬一瞬高めながら、
必然的なフクシマ以上へ突き進んでいる。
それでも、
殆どの、99.99%以上の「國民」は「生活」がある、と言っている。
末期カルトの信者のようになっていなければ、こんな状態で「生活がある」と言って現実に向き合おうとすらせず狂乱に現を抜かせ続けていられる道理がない。
殆どの、99.99%以上の「國民」は、錯乱を深め倒錯をしたまま、
米国人の詩人が言っていた「東京オリンピックはできない」という言葉がやはりまた当たって、
日本という国は、必然的なフクシマ以上に陥るのではないだろうか。


2018年7月13日金曜日

フクシマを引き起こしても「原子力」をやめらないまま、必然的なフクシマ以上へ突き進んでいる理由について(2)


どんなにありそうもないウソでも受け入れ、

それがデタラメだと分かってもけろりとしている。

アレントはそのような態度を指して、

軽信とシニシズムの同居と呼んだ。

何でもすぐに信じるが、

確たる信念を何一つ持っていないから、

騙(だま)されたと分かっても平気なのだ。



何かを信じていないから、何でもすぐに信じてしまう。
自分の幸福への無関心もおそらくそこに由来する。


***


(思考のプリズム)現政権の知らんぷり対応 見抜かれている無関心 國分功一郎

2018年7月11日16時30分
 先日、ドイツの若い哲学者マルクス・ガブリエルと公開討論する機会があった。民主主義をテーマとした討論の中で私は、「いま日本では役人による公文書改ざんが問題になっているのだが、驚くべきことに人々はこれにほとんど怒っていない」と述べた。
 そのとき私の念頭にあったのは、哲学者ハンナ・アレントがその著書『ログイン前の続き全体主義の起原』のなかで、20世紀初頭に現れた大衆社会を分析して述べた言葉、大衆は何事をもすぐに信じるが同時に何事をも信じていない、であった。
 公文書の改ざんは未曽有の疑獄事件と関わっている。ウソにウソを重ねた関係者たちの矛盾点は既に暴かれている。会見して事情を説明すべき人物は国民の前に現れない。政権はただほとぼりが冷めるのを待つばかりだ。
 ところが、この事態を前にしても世論が怒りに震えることはない。どんなにありそうもないウソでも受け入れ、それがデタラメだと分かってもけろりとしている。アレントはそのような態度を指して、軽信とシニシズムの同居と呼んだ。何でもすぐに信じるが、確たる信念を何一つ持っていないから、騙(だま)されたと分かっても平気なのだ。
     *
 アレントは大衆社会の最大の特徴を、「自分の幸福への無関心」に見ている。私は最近、同書を読み直しながら今の日本社会を想起せざるを得なかった。確かに私たちはいま、自分たちの幸福に対して関心を持てなくなっているのではなかろうか。
 こう反論する人がいるかもしれない――。今の日本社会は、「自分さえよければよい」と思っている人ばかりではないか、と。もしそのような反論を思いついた人がいたならば、それこそ現代における幸福への無関心を如実に示す証拠であると言わねばならない。
 幸福には未来への見通しや理想が欠かせない。「自分さえよければよい」というのは「自分だけは災難を避けたい」という焦りの表現に過ぎない。だが、いま私たちはそうした焦りを幸福への関心と混同してしまうほどに混乱した社会を生きている。
 自分の幸福への関心は、自分たちの幸福への関心と切り離せない。だが、自分の幸福に関心がないのだから、自分たちのそれについて関心を持ちうるはずがない。だから、自分の生きる場が危機に晒(さら)されても、それに真剣に対応しようとしない。騙されてもシニシズムでやり過ごせる。
     *
 すべては、人が何らかの信ずる価値を持てずにいることに由来しているように思われる。何かを信じていないから、何でもすぐに信じてしまう。自分の幸福への無関心もおそらくそこに由来する。
 ガブリエルは討論の中で、ドイツ基本法の第1条が掲げる「人間の尊厳の不可侵」という価値について堂々と語った。私はそのことをとてもうらやましく思った。日本の憲法もまた「基本的人権の尊重」をその原理の一つとして掲げている。しかし私はそれを彼のように堂々と語ることはできない。その価値は日本では少しも信じられていないからである。
 現政権はこれまで、どんな批判に対しても知らんぷりをすることでやり過ごしてきた。歴代の政権であれば「さすがにそれはマズい」と考えるようなことも平気で実現している。その最大の例は2014年の閣議決定による憲法解釈の変更だ。
 政権の知らんぷりが通用するのは、私たちが「これだけは譲れない」という何らかの価値を信じることができずにいるからだろう。政権はそのことを見抜いているから、このような事態に陥っても少しも焦っていないのである。
 (哲学者)

https://digital.asahi.com/articles/DA3S13580921.html?rm=150

2018年7月8日日曜日

フクシマを引き起こしても「原子力」をやめらないまま、必然的なフクシマ以上へ突き進んでいる理由について(1)

「「エリート」のみならず、社会全体がオウム的になっているとすら言えます。
にもかかわらず、社会の側はオウムを自らと切断し、その自覚も学習もないまま、死刑が執行された。結局日本社会は、オウムを自分たちの問題として捉えることに失敗したのです。」

*****

オウムを生んだ社会は今 大澤真幸さん、宮台真司さんに聞く

2018年7月8日05時00分
 若者らによる無差別テロで大きな犠牲と混乱をもたらしたオウム真理教事件。平成の日本社会の自画像を揺るがし、多くの問いと論争を生んだ。教団トップの松本智津夫麻原彰晃)死刑囚ら7人への死刑が執行された今、オウムを生んだ社会はどう変わったのか。事件直後から積極的に発言していた社会学者の大澤真幸さんと宮台ログイン前の続き真司さんに聞いた。
 ■「虚構の時代」困難より深く 社会学者・大澤真幸さん
 オウム真理教地下鉄サリン事件を引き起こしたとき、私はこれを「虚構の時代の果て」の出来事だと論じた。私の考えでは、日本の戦後史は、理想の時代から虚構の時代へと変化してきた。理想の時代とは、社会全体に関してであれ、人生に関してであれ、何が理想の状態であるかのイメージが明確で(「平和と民主主義」「マイホーム」等)、コンセンサスがある段階である。理想の時代は1970年代初頭で終わる。理想のもつ説得力が失われ、理想が占めていた場所を、多くの私的な虚構(アニメ、ゲーム等)が占め、人々がそれらに耽溺(たんでき)する時代がやってきた。
 オウムは、虚構の時代が極限に来ていたことの指標である。彼らは虚構を、彼らの「革命」を駆り立てる理想として活用したからだ。理想と虚構はともに非現実だが、違いは、前者はやがて現実化すると見なされなくてはならない点にある。理想の枯渇は耐え難い。オウムは虚構をそのまま理想とし、その実現を目指したのだ。オウム信者がアニメ的世界を生きているように見える、とはこのことを指している。
 だが特殊なタイプの虚構でなければ、直接、理想として働かない。理想の時代はとっくに終わり、どんな理想も偽善に見え、本物とは感じられないとき、何が理想の代わりになりうるのか。理想は一般に、何らかの未来の状態に対して建設的なものである。この建設的な側面をトータルに否定し、破局を導く無目的な破壊の力、それだけがかつての理想に匹敵する――いやそれを上回る悪魔的魅力を発するだろう。その破壊が、偽善的な理想をことごとく拒絶する真に崇高な理想に見えるからだ。
 このトータルな破壊を組み込んだ妄想(虚構)が世界最終戦争(ハルマゲドン)であり、破壊力の源泉が最終解脱者の麻原彰晃である。彼らのテロは最終戦争の一環である。要するに「最終戦争を戦っていると思うとワクワクし生きている実感がする」ということだ。
 当時の知的な若者がどうしてこんな虚構=理想に惹(ひ)きつけられたのか。もともと資本主義に理想を相対化し、色褪(あ)せさせる働きが内在しているのだが、ここでは日本社会に絞って問題を指摘しておこう。戦後日本は、普遍的な価値をもつ理想を構築し、我がものとすることに失敗したのだ。敗戦の屈辱と経済成長の実感がある間は、理想が地に足を着けていない状態を意識せずに済んだ。しかしそれらが消えたとき、崇高な理想がどこにもない砂漠のような状況が出現する。これに対する過激な反応がオウムだった。
 あれから23年、困難は克服されたのか。そんなことはない。状況はより深刻だ。
 かつてオウム信者が戦争ごっこを楽しむことができたのは、彼らも世界が終わると本気には信じていなかったからである。一人を除いて。そう一人は信じていなくてはならない。そうすれば、その一人への帰依を通じて、(自分は信じていなくても)その一人の夢の中を生きることができる。
 ならば安心、その「一人」は死刑に処せられた……と思ったら大間違い。今日オウムのような集団が現れないのは、誰もが、近い将来ほんとうに破局が訪れ得ると知っているからだ。このまま行けば大丈夫、と思っている人はほとんどいない。現状のまま続ければ、日本は、地球は破局的結末の到来を避けられない。労働力不足による福祉制度の根底的崩壊か、極端な格差か、核戦争か、生態系の破壊か、具体像はわからないが、そのいずれかが起こるということは、現実的な予想の中にある。それなのに、私たちは、破局の回避という最小限の条件を満たす理想社会への道すら見出(みいだ)せない。
 かつて一人の妄想だったことが、今や、万人の予想のうちにある。事態はましになったのか?(寄稿)
     *
 おおさわ・まさち 1958年生まれ。思想誌『THINKING「O」』主宰。96年に『虚構の時代の果て―オウムと世界最終戦争』刊行。近著に『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』。
 ■日本的な構造の反復いまも 社会学者・宮台真司さん
 オウム真理教の事件は、今の首相官邸や国会、そして霞が関に見られる「エリート」の迷走の、出発点だったと言えるでしょう。
 事件を起こした教団幹部の多くは学歴が高い「エリート」。彼らの多くは、私もそうですが、上昇機運に包まれた高度経済成長期に生まれ育ちました。
 子どものころに抱いていた「輝かしさ」を経験できない不全感は何もオウムに集まった人たちだけの特徴ではありません。世代的に共有されていた。僕自身1980年代の前半に「自己啓発セミナー」の現場で、そうした感受性を共有した人たちと出会いました。若い官僚や芸術家らが数多くいた。
 かつてと違って「努力して貧しさを克服する」といった社会の中での地位上昇によっては解決できない「実存」の問題を、どう解決するか。地下鉄サリン事件が起きた95年ごろには既に上昇の輝かしさが遠のき、一言でいえば「こんなはずじゃなかった」という感覚が少なくとも「エリート」の中に充満していた。
 オウムは、社会的な地位達成で埋め合わせられない実存的な不全感を、宗教によって埋め合わせ、まじめな若者を引きつけた。単なる生きづらさを「ハルマゲドン」に象徴される「世界変革」で解消しようとした短絡にこそ特徴があります。
 事件が起きるまでは、こうしたオウム真理教をさも「真なる仏教」などともてはやす人たちがいた。選挙に出馬し、テレビ番組に出たことなどでも注目を集め、なぜ若者たちが入信するのかという動機の不透明さが「新しさ」として受け止められた。ですが、僕は危険だと考えていた。
 出発点は、まじめな若者の生きづらさ。だからこそ危険なのです。地下鉄サリン事件の4カ月後に発表した『終わりなき日常を生きろ』は、「輝きを失った世界」で、実存の問題を世界変革に結びつけることを問題にし、そこそこ腐らず生きていくことを「まったり」という言葉で肯定しました。
 オウムという存在や事件自体は日本社会を大きく変えてはいません。むしろ逆です。その後の報道などでも明らかなように、この社会に絶望して教団に入ったのに教団の中で繰り返されていたのは、今風にいえば、教団内での地位をめぐる、麻原彰晃の覚えをめでたくするための「忖度(そんたく)」競争でした。教義や大義は、どうでもよかった。日本社会の特徴とされる構造の反復です。その意味ではオウムは極めて陳腐な存在です。
 だからこそ危ないとも言える。不全感を解消できれば、現実でも虚構でもよい。自己イメージの維持のためにはそんなものどちらでもよい。そうした感受性こそ、昨今の「ポスト真実」の先駆けです。誤解されがちですが、オウムの信徒たちは現実と虚構を取り違え、虚構の世界に生きたわけではない。そんな区別はどうでもよいと考えたことが重要なのです。
 事件後、「オウムバッシング」が広がり、実存の不全感を人前で訴えるのは「やばい」ことになる。事件の半年後に始まったテレビアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」に代表されるように、若者は自己イメージを維持するために繭にこもるようになる。ですが、「エリート」の迷走も「現実と虚構」の関係も実は変わっていません。
 「エリート」のみならず、社会全体がオウム的になっているとすら言えます。にもかかわらず、社会の側はオウムを自らと切断し、その自覚も学習もないまま、死刑が執行された。結局日本社会は、オウムを自分たちの問題として捉えることに失敗したのです。(聞き手・高久潤)
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 みやだい・しんじ 1959年生まれ。首都大学東京教授。「オウム完全克服マニュアル」という副題を持つ『終わりなき日常を生きろ』を95年に刊行。著書に『正義から享楽へ』など。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S13576119.html?rm=150