先日、ドイツの若い哲学者マルクス・ガブリエルと公開討論する機会があった。民主主義をテーマとした討論の中で私は、「いま日本では役人による公文書改ざんが問題になっているのだが、驚くべきことに人々はこれにほとんど怒っていない」と述べた。
 そのとき私の念頭にあったのは、哲学者ハンナ・アレントがその著書『ログイン前の続き全体主義の起原』のなかで、20世紀初頭に現れた大衆社会を分析して述べた言葉、大衆は何事をもすぐに信じるが同時に何事をも信じていない、であった。
 公文書の改ざんは未曽有の疑獄事件と関わっている。ウソにウソを重ねた関係者たちの矛盾点は既に暴かれている。会見して事情を説明すべき人物は国民の前に現れない。政権はただほとぼりが冷めるのを待つばかりだ。
 ところが、この事態を前にしても世論が怒りに震えることはない。どんなにありそうもないウソでも受け入れ、それがデタラメだと分かってもけろりとしている。アレントはそのような態度を指して、軽信とシニシズムの同居と呼んだ。何でもすぐに信じるが、確たる信念を何一つ持っていないから、騙(だま)されたと分かっても平気なのだ。
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 アレントは大衆社会の最大の特徴を、「自分の幸福への無関心」に見ている。私は最近、同書を読み直しながら今の日本社会を想起せざるを得なかった。確かに私たちはいま、自分たちの幸福に対して関心を持てなくなっているのではなかろうか。
 こう反論する人がいるかもしれない――。今の日本社会は、「自分さえよければよい」と思っている人ばかりではないか、と。もしそのような反論を思いついた人がいたならば、それこそ現代における幸福への無関心を如実に示す証拠であると言わねばならない。
 幸福には未来への見通しや理想が欠かせない。「自分さえよければよい」というのは「自分だけは災難を避けたい」という焦りの表現に過ぎない。だが、いま私たちはそうした焦りを幸福への関心と混同してしまうほどに混乱した社会を生きている。
 自分の幸福への関心は、自分たちの幸福への関心と切り離せない。だが、自分の幸福に関心がないのだから、自分たちのそれについて関心を持ちうるはずがない。だから、自分の生きる場が危機に晒(さら)されても、それに真剣に対応しようとしない。騙されてもシニシズムでやり過ごせる。
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 すべては、人が何らかの信ずる価値を持てずにいることに由来しているように思われる。何かを信じていないから、何でもすぐに信じてしまう。自分の幸福への無関心もおそらくそこに由来する。
 ガブリエルは討論の中で、ドイツ基本法の第1条が掲げる「人間の尊厳の不可侵」という価値について堂々と語った。私はそのことをとてもうらやましく思った。日本の憲法もまた「基本的人権の尊重」をその原理の一つとして掲げている。しかし私はそれを彼のように堂々と語ることはできない。その価値は日本では少しも信じられていないからである。
 現政権はこれまで、どんな批判に対しても知らんぷりをすることでやり過ごしてきた。歴代の政権であれば「さすがにそれはマズい」と考えるようなことも平気で実現している。その最大の例は2014年の閣議決定による憲法解釈の変更だ。
 政権の知らんぷりが通用するのは、私たちが「これだけは譲れない」という何らかの価値を信じることができずにいるからだろう。政権はそのことを見抜いているから、このような事態に陥っても少しも焦っていないのである。
 (哲学者)

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