2014年5月2日金曜日

▶ 20120728 知られざる放射線研究機関             ABCC/放影研 - Dailymotion動画

▶ 20120728 知られざる放射線研究機関 ABCC/放影研 - Dailymotion動画





原爆の悲惨さを訴えていまも読み継がれている漫画がある。
はだしのゲン

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放影研の前身であるABCCを描いたこんな場面が出てくる。

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なにもくれずまるハダカにされ
白い布をかぶせられ
血を抜かれて身体を隅々まで調べられたというとった。
アメリカは原爆を落としたあと、
放射能で原爆症の病気が出る事が分かってたんじゃのう
く、くそ
戦争を利用してわしらを原爆の実験にしやがったのか

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「はだしのゲン」作者 中沢啓二さん(73):
原爆を透過する前に、もうすでにアメリカは分かっていたんですよ、あれは。
落とした後にどういうふうな放射能影響が出るか?って言う事を分かっていて、
それですぐにABCCを比治山の上に建てるわけでしょ。

中沢啓二さんは「はだしのゲン」の作者であり、自身も被爆している。
母キミヨさんは被爆から21年後に亡くなった。

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その時中沢さんは、今も脳裏に焼きついて離れない体験をした。

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中沢啓二さん:
ABCCが来てね、おふくろの「内臓をくれ」っていうんですよ。
棺桶に入っているおふくろの「内臓をくれ」って言うから、
怒ったんですよ、もう「帰れ!」って。
いや・・・あれはもう、
広島市を見下ろす比治山の上から、じーーーっと、こうやって見ているんでしょうね。
「今日は被爆者の誰が死んだ」
「誰が死んだ」って言って…



アメリカ国立古文書館 メリーランド州
ABCCによる被爆者調査の背景を物語る文書がアメリカの国立公文書館にある。
1946年海軍省が大統領へ送った文書だ。

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ーアメリカ海軍省の文書ー
アメリカにとって、極めて重要な放射線の医学的生物学的な影響を調査するにはまたとない機会です。
調査は郡の範囲を超え、戦時だけでなく平時の産業農業など、人類全体に関わるものです。

この文書に承認のサインをしたのは、原爆投下を命じたトルーマン大統領、その人だ。

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トルーマン大統領:
戦争の長引く苦病を短縮し、何100万もの若いアメリカ兵の命を救うために原爆を使用した。

アメリカ兵の命を救ったとする一方で放射線の影響の調査を命じていた大統領。
その承認を受け、1947年ABCCが広島で設立された。

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ABCCが当初最も重視したのは、遺伝的な影響だった。
広島・長崎で生まれた被爆者の子ども被爆2世を7万7000人調査した。
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担当部長として調査を指揮したウィリアム・シャル氏は死産の赤ちゃんを調べたという。

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元ABCC遺伝学部長 ウィリアム・シャル氏(90):
死産や、生まれた日に死んだ赤ちゃんは、家族の同意があれば、ここABCCで解剖しました。
採集された組織は保存されました。

遺伝的な影響があるのか結論が出ず、被爆2世の調査は今も続いている。

そんな放影研に福島県郡山市から依頼があった。(2012年4月)
大久保利晃理事長(放影研)が、市の健康管理アドバイザーとして招かれたのだ。
専門的な知識を期待されてのことだったが、

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放影研 大久保利晃理事長:
放射線に被ばくすればするほど癌は増えます。もちろんですね。
ところが、逆に今度はだんだん、だんだん(被ばく量を)減らしていった時にどうなる?
本当に、もうゼロに近いところでもごくわずか(がんが)増えるか増えないかですね。
これがひとつ
本家本元の広島の研究では、
(がんが)増えたのか増えていないかっていうのは、統計学的に証明できていないんです。

実は、放影研のデータは福島でそのまま活用できない。
放影研が調査してきたのは、
原爆が爆発した瞬間、体の表面に強烈な放射線を浴びる高線量の外部被ばくだ。

福島でいま起きている事はこれとは異なる。
放射性物質が呼吸や食事で身体の中に取り込まれ、放射線を放ち細胞を傷つける内部被ばくだ。

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大久保利晃理事長 放影研:
たとえば子どもさんと外を散歩させていいのか、あるいはよくね、
乳児に外気浴させてたいんだけど、外に連れ出していいのか。
これ、全てですね、申し訳ないんだけども、
「良い」「悪い」という形で、私からは返事が出来ないんですね。

低線量の内部被ばくのリスクについて、大久保理事長は慎重に言葉を選んだ。
そんな大久保氏に講演会のあと歩み寄った一人の女性がいた。
出産を間近に控えた井上美歌さんだ。

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井上美歌さん(28):
食べ物からとかの内部被ばくを
やっぱりこれから気を付けていくことが一番生活で安全なのかなと思うんですけど、

大久保利晃理事長 放影研:
特定のものばかり食べていてね、(放射線量の)そのまま高いものばかりになっちゃうと、
それはやっぱり、あの…危険とは言わないけれども、
出来れば避けた方がいいですよね。

福島の人々の不安に答えられない放影研。
その原因は放影研のデータには決定的に欠落した部分があるからだ。


大久保利晃理事長 放影研:うちのリスクデータには内部(被ばくの)放射線の事は勘案しておりません。

放射線の人体への影響を60年以上調べている放影研だが、
実は、「内部被ばくのデータはない」という。

しかし、言うまでもなく、内部被ばくは原爆投下でも起きた。
爆風で舞いあげられた放射性物質やススがきのこ雲となり、
やがて放射性物質を含んだ雨を降らせた。
この黒い雨で汚染された水や食べ物で、内部被ばくが起きたと考えられている。

大久保利晃理事長 放影研:
黒い雨の方はですね、これは当然上から落ちてきた放射性物質が周りにあって被爆するから、
今の福島とまったく同じ状態ですよね。
それは当然あると思うんですよ、うん。
で、それについては実は、
黒い雨が沢山降ったところについては、あの、いわゆる調査対象の外なんですよ。


内部被ばくをもたらした黒い雨は放影研の前身のABCCの時代から調査の対象外だったという。
もとABCC部長のシャル氏はその理由をこう証言する。

ウィリアム・シャル氏 元ABCC遺伝学部長:
予算の問題は1950年からありました。
研究員たちは、予算の範囲内で何を研究できるかを考え、優先順位を付けました。
黒い雨は何の証拠もありませんでした。
だから、優先順位は低かったのです。


アメリカ ワシントン アメリカ学士院

だが、ABCCが一時期内部被ばくの調査に着手していた事が私たちの取材で分かった。
それを裏付ける内部文書がアメリカに眠っていた。

1953年にウッドベリー氏が書いた未発表の報告書です。

ローウェル・ウッドベリー氏はABCCの当時の生物統計部長だ。
報告書には広島の地図が添えられ、内部被ばくの原因となった黒い雨の範囲が線で書かれている。

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ウッドベリー氏は黒い雨の本格的な調査を主張していた。

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ーウッドベリー氏の報告書ー
原爆が爆発した時の放射線を、ほとんどまたは全く浴びていない人たちに被ばくの症状がみられる。
放射線に敏感な人が、黒い雨の放射性物質で発症した可能性と、
単に衛生状態の悪化で発症した可能性がある。
どちらの可能性が正しいか確かめるために、もっと詳しく調査するべきだ


この報告書に基づき、内部被ばくの予備調査が1953年から1年程続けられた。
調査の担当者として日本人の名前も記されていた。
Dr,Tamagaki


玉垣秀也氏(89) 元ABCC研究員:懐かしいですね、10何年もここにおったんですから。


玉垣秀也氏は医師の国家試験に合格した後、ABCCに入った。
黒い雨も含め、原爆投下後に残った放射性物質、残留放射能の調査を命じられた。
玉垣氏は原爆投下後に広島へ入った救助隊員40人を調べた。
5人に深刻な症状を確認し、うち二人は既に死亡していたという。

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玉垣秀也氏 元ABCC研究員:
直接(放射線を)受けた人たちと同じように脱毛がある。
それから歯茎からの出血ね、それから下血、発熱と、そういうような症状でしたね。

しかし、アメリカ人の上司は「衛生状態の悪化が原因だ」と一蹴し、
この調査を打ち切ったという。

玉垣秀也氏 元ABCC研究員:
ま、結局(上司は)
「あの当時の人達は衛生状態が悪いから腸チフスにかかっても不思議はない」

Q:それを聞いて玉垣さんはどう思いましたか?

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玉垣秀也氏 元ABCC研究員:私はやっぱり、原爆の影響だと思いましたよ。

ABCCから放影研に代わった後も内部被ばくの調査は再開される事はなかった。

長崎市 2012年6月
黒い雨の内部被ばくの実態は、今も広島・長崎の研究者の間で論議を呼んでいる。
内部被ばくに対する放影研の姿勢を疑問視する声もある。

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大滝慈教授 広島大学原爆放射線医学研究所:
内部被ばくのような問題を、もし重要性が明らかになりますと、
アメリカ側が想定してきた様な、その、核戦略といいますか、
それらのその前提が崩れてしまうのではないかなと。


内部被ばくへの不安を訴えていた福島県郡山市の井上さんは、
この4月、元気な女の子うららちゃんを出産した。

井上美歌さん:
春に生まれたので、春の新しい命が芽吹く時に力強く育ってほしいなと思って、
「春」と言ったら「うらら」かなって思いました。

市役所から届いたバッジ式の線量計。
しかし、これでは内部被ばくについては測りようがない。

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井上美歌さん:
福島産だったら「不検出」と書いてあれば使いますけど、
何も張り出しがない場合は、福島じゃないものを使ってしまいますね。

井上さんが放射性物質を取り込めば、母乳を通じ、うららちゃんの身体に入る。
井上さんは自分の内部被ばくを防ぐことでわが子を守ろうとしている。

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井上美歌さん:
今はなにも「異常がない」っていうふうに言われていますど、いつ何があるか分からないし、
「自分たちで気を付けて下さい」って、ただ言われているだけのような気がして。


原爆の放射線の影響は被爆者の生身の身体で研究されてきた。
それと同じ構図が福島で繰り返されるのだろうか?

内部被ばくを調査の対象から外した放影研。
福島の原発事故発生から1年が経った今年3月14日。
大きな方針転換を決めた。
それは、

内部被ばくを調査の対象から外した放影研が、新たな方針を定めた。


大久保利晃理事長 放影研:
過去の業績と、それから蓄積した資料を使ってですね、
原爆に限らず一般の「放射線の慢性影響に関する世界の研究教育センター」を目指そうと。


取扱注意と記された放影研の将来構想。
内部被ばくを含む低線量被ばくのリスクを解明する事を目標に掲げていた。
原爆投下を機に生まれた研究機関は、
今、原発事故を経て方針転換を余儀なくされている。


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知られざる研究施設の実態


金平茂紀:
取材に当たったRCC中国放送の藤原記者です。
藤原さんね、この放射線影響研究所、放影研ですね。
やっぱりちょっと一般の研究施設とはちがいますね。

藤原大介記者 RCC:
そうですね、
こちらの一本の廊下をはさんで、およそ20の研究の部屋が並んでいます。
短い時間で効率的に検査をこなし、データを集めるためです。
被爆者たちはこの廊下を戦後60年あまり歩き続けてきました。
放影研の建物自体はABCCとして発足した頃のかまぼこ型の兵舎がそのまま使われています。

金平茂紀:
VTRの中に登場した、
はだしのゲンの作者の中沢啓二さんの言葉が、強烈に耳にこびりついているんですけれども、
「人体実験じゃないか」
「モルモット扱いをされたんじゃないか」という怒りの思いが伝わってきたんですが、
放影研の前身のABCCですけれどもね、
これ、そもそもどういう研究施設だったのか?という疑問が残りますですね。


葬られた“内部被ばく”調査

藤原大介記者 RCC:
ええ。
中沢さんと同じような暗い記憶を、大勢の人達が抱えています。
占領期のABCCは軍用ジープで半ば強引に被ばく者を連れてきました。
助産師に金銭を渡し、死産の赤ちゃんの遺体まで集めたという、元研究員の証言もあります。
そうまでして集めた被爆者の膨大なデータが、
内部被ばくの影響を軽視したことで、福島で役に立たないという事実にやるせない感じがします。

金平茂紀:
そしてですね、311、大震災と原発事故を契機としてですね、
ようやく1年以上経ってから、放影研が内部被ばくの研究に再着手するというようなですね、
そういう方針転換をしたんですね。

藤原大介記者 RCC:
そうですね。ABCC,放影研の調査は決して被爆者のためではありませんでした。
内部被ばくの影響が抜け落ちているのに、
国はその不完全なデータを根拠に、被ばく者の救済の訴えを切り捨ててきました。
今放影研は福島県民200万人の健康管理調査を支援していますが、
そこで内部被ばくを軽視した広島の対応が繰り返されてはならないですし、
ヒロシマの教訓は福島で生かされなければならないと思います。


金平茂紀:
そもそもですね、その日本に於いて被ばく者を救う筈の原爆医療さえ、
アメリカのABCCというような、そのデータ集めの研究からはじまってしまった悲劇というんですか、
いったい「誰のための医学なのか?」「何のための医学なのか?」って思いも改めてしましたけれども、


ヒロシマからフクシマへ

藤原大介記者 RCC:
放影研は将来構想で内部被ばくを含め低線量のリスクを解明することを目標に掲げました。
しかしその研究は、今福島で生きる人々のためにはなりませんし、
そもそも内部被ばくの問題が欠落している放影研にリスクが解明できるのかが疑問です。

何故内部被ばくの問題を過去に葬り去ったのか、その検証も欠かせません。


金平茂紀:以上広島から中継でお伝えしました。



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<訃報> 中沢啓治さん73歳=漫画「はだしのゲン」の作者
毎日新聞 2012年12月25日09時29分

広島原爆で被爆した体験を基に描いた漫画「はだしのゲン」の作者、
中沢啓治(なかざわ・けいじ)さんが19日、肺がんのため広島市内の病院で亡くなったことが分かった。
73歳。葬儀は近親者で営まれた。

広島市の神崎国民学校(現・市立神崎小学校)1年の時、
爆心から1.2キロにあった学校の前で被爆した。
塀の陰にいたため、奇跡的に助かった。
父と姉、弟は自宅の下敷きになって被爆死した。

中学を卒業して看板屋で働いた後、漫画家になるため1961年に上京した。
当初は原爆と無関係の作品を描いていたが、被爆者だった母親が66年に死去し、
火葬した際に骨が粉々で原形をとどめなかったことをきっかけに、
原爆への怒りを込めた作品「黒い雨にうたれて」を68年に発表。
73年、週刊少年ジャンプ(集英社)で「はだしのゲン」の連載を始め、87年に完結させた。
単行本は1000万部を超え、十数カ国で翻訳出版されたほか、映画にもなった。

プロ野球・広島東洋カープの大ファンで、「広島カープ誕生物語」を描き上げたのを最後に
09年、網膜症と白内障による視力低下を理由に漫画家を引退した。
その後は精力的に講演などで被爆体験を語ってきたが、
10年秋に肺がんで入院し、以降は入退院を繰り返していた。

11年8月、自身の被爆体験を語ったドキュメンタリー映画
「はだしのゲンが見たヒロシマ」が公開された。
毎年8月6日にある広島市の平和記念式典は「つらい体験を思い出す」と長年避けてきたが、
11年の式典に初めて出席した。

02年、第14回谷本清平和賞を受賞。
毎日新聞が06年10月から続けている記録報道「ヒバクシャ」でも、
反核・平和への思いを繰り返し語っていた。



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「マンハッタン計画医療班報告の裏側」(内容書き出しました)

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お時間があるときに、是非ご覧下さい。
テレビでくだらない年末年始の特番見るならこっちがお勧め!
続きを読むに中沢啓治さんの動画






1992年8月放送
「はだしのゲンは忘れない」

核開発の惨禍 チェルノブイリ、セミパラチンスク核実験場のいま

中沢啓治さん:
住んではいけない汚染地帯なんですけど、こうして多くの人たちが住んでいる。
帰ってきて生活をしているわけですね。
全くそれとだぶるんですね、非常に。
だから、ここの人たちは、放射能の恐ろしさというのを全然わかっていないというか、
知らされていないというか、そういう感じの中で、
放射能があるここでできる作物を食べて、どんどん、どんどん体内に放射能が蓄積してですね、
そういう危険な状態の中に生活しているというか、













中国地方で2010年7月に放送した番組
「はだしのゲンは終わらない」



はだしのゲンは終わらない 幻の続編からのメッセージ 投稿者 tvpickup

http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-2672.html


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